川田雄士
1965年生まれ、岡山県出身。86年広島工業大学建築学科を卒業後、父の経営する川田設備株式会社に入社。95年、三井物産株式会社へ転職。96年に有限会社茂山組を設立。99年、株式会社茂山組に組織変更。2003年に太陽光発電事業へ参入。12年スペインバルセロナにネクサスリゾート株式会社設立。14年碧水園株式会社設立。茂山組は現在、岡山県を中心に太陽光発電施設の建設事業と太陽光発電用架台の製造を展開し、県内一の施工実績を誇る。太陽光発電の設置のほか、架台の開発や、メガソーラー用の用地提供等の事業展開も進めている。
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INTERVIEW

太陽光発電パネルがあらゆる公共施設から個人の家庭にも設置される。今では当たり前にある光景を、まだ誰も想像できなかった2003年。専門知識を持たない私が太陽光発電に乗り出した理由は、新しく素晴らしい技術に対する感動をお客様へ届けたいというシンプルな発想からでした。何ひとつ売るものがない、まったくのゼロからスタートした事業が、顧客満足度の高い商品の開発に成功し、世間に受け入れられた時。買い手が喜び、世間が喜び、売り手が喜ぶ「三方良し」の精神が、自分自身の芯になっていたことに気付かされでした。

物を作るのが大好きで、進路に疑いがなかった

川田雄士

岡山県備前市で生まれ育ち、水道工事業の父の背中を見て育ちました。幼少期は体が小さく、恥ずかしがり屋だったので、いじめっ子たちに会うよりは家の中で粘土を触るのが好きでした。近所の大工さんの仕事を見るのも大好きで、一日中棟梁の仕事を眺めていたので、次第にかわいがられて廃材をもらったり、薄いカンナ屑を拾って感心したり、五寸釘をコンロで炙(あぶ)って刀鍛冶ごっこをしたりと、工作に明け暮れる子供でした。自分で椅子や机を作ってみたり、粗大ゴミからモーターを拾っておもちゃの改造をしたり、工夫して遊ぶのが大好きでした。父も私の様子をよく見てくれていたのでしょう。小学5年生の夏休みに「全日本学生児童発明くふう展」へ出品をうながされ、パチンコと電子ビンゴを組み合わせたゲーム機を作ったところ、金賞をいただきました。父は私が火を使ったり刃物や電気を使ったりしてもまったく怒ることなく、自信をつけさせてくれたのだと思います。

子供の頃から「大きくなったらお父さんと同じ水道工事をやるんだ」と信じて疑わず、大学で進路を選ぶ際も建築学科を選びました。卒業時はバブル景気で、誰にでも求人が何社も届く時代です。私にもたくさんのオファーが届きましたが、それでも水道工事以外に就職するつもりはなく、まっすぐ父の会社へ向かいました。何年も父の仕事を見て、時には手伝ってきたので、即戦力として働き始めることができました。しかし働いているうちに、職人気質の父と衝突する機会が増えたので、一度知らない場所で違う仕事をしてみようと、求人誌の1ページ目にあった会社へ転職を決めたのです。

いざ転職してみると、なかなか環境に慣れず、父の仕事も心配でたまりません。さらに父の方からも連絡があり「個人事業主の茂山組という建築土木の会社を引き継いだから、お前がやってみないか」というのです。ゼロから事業をやり直すという未経験のチャレンジですが、やってみたいと思い、転職から1年もたたずに岡山県へ舞い戻りました。

  • 川田雄士
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無知と単細胞が導いた太陽光発電事業

自分で事業を起こすのなら、大学卒業後、27歳で一級建築士の資格を取っていたので、子供の頃に大好きだった大工さんのように、住宅の設計やリフォームをするつもりでした。しかし父の会社から1人、私と一緒に働きたいという社員が現れたのです。のんびりと構えていては社員の給料を稼ぐことができません。事業のプランは白紙、なんの売り物も持たないまま、体ひとつで飛び込み営業を始めました。今考えると無茶な行動ですが、怒鳴られたり塩を撒かれたりしながらも御用聞きを続けると、トイレの改修工事を受注することができました。そこから少しずつお客さんの紹介がつながり、見積もりを頼まれ、受注も増えていきました。

あるとき、とあるゼネコンの社長さんにお会いする機会がありました。自分の会社の事業を話すと「建設会社を大きくするなら、公共工事で力を付けるんだよ」と教えてくださったのです。お話を伺ってすぐ、公共工事を受注する方法を調べると、資格を取って機材をそろえるほか、会社の経営状況を健全にしたり、社員の社会保障関係を整えたりと、様々なことがスコア評価されると分かりました。そこで、しばらくはその環境づくりに邁進し、大きな会社になる準備をしたのです。くしくもその時期は公共工事の入札がインターネット入札になり、正当に数字だけで発注先が評価される仕組みに変わるタイミングでした。そのおかげもあり私たちは新しい会社ながら、安定して公共工事を受注できるようになりました。

2001年以降に公共工事の削減が進み、新規事業が必要になりました。市場調査で浮かび上がったのが太陽光発電です。しかし当時はまだ大手住宅メーカーの一部が扱う超高級品で、一般家庭に普及するとは思えませんでした。ヨーロッパに渡ってビジネス規模をくわしく調べてみると、電気代やCO2の削減、発電の仕組みなど大変魅力的に感じたので、初心に帰って自分の足で営業に回りました。するとお客様はしっかりと興味を示してくださり、設置後にはとても喜んでくださいました。私よりも環境のことや節電効果について敏感に情報を集め、口コミで広げてくださったのです。事業の初動はお客様に育てていただきました。

太陽光発電パネルの設置を行ううちに、それぞれの設置場所の条件に応じた取り付け架台の必要を感じ、開発、製造、販売を一手に行う「太陽光発電架台.COM」を立ち上げました。2011年の震災以降の電力不足と、電力の買い取り制度開始が相まり、注文が殺到。なんの売り物もなかった私たちが、お客様に喜んでもらえる上に、環境に優しい商品を広められるようになったのです。現在はさらに事業を広げ、夢だった家づくりも始めています。振り返ってみると、私は無知で単純な経営者です。無知だからこそ、自分の足で調べ、人と話し、耳で聞き、本を読んで学びました。単純だからこそ、人を信じて疑いなく行動してきました。いまは情報があふれていて、つい失敗を恐れてしまいます。100の失敗があっても、1の成功が素晴らしい人生を導いてくれることもある。若い人にはそう伝えていきたいです。

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