藤田和夫
札幌創成高等学校卒。卒業後10年間すすきの等で、ドラマーとしてミュージシャン活動をし、30代で建設業へ。3年目で経営者となり、36歳で独立する。バブル崩壊時に生き残り、各種プロジェクトや会社再建に関わる。50代半ばでニセコの開発に関わった後、縁あって社会福祉法人孝楽会の2代目理事長に招聘(しょうへい)され現在に至る。組織の中核がしっかり育ってきているので、70歳までに後進に道を譲るべく準備を始めている。
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INTERVIEW

落ちこぼれの私がこの人生で学んだことは、一言でいうと「謙虚」でしょう。人は間違うもの。それが人間です。問題はそこから何を学ぶかですね。「正しい」という字は「一止まれ」と書きますが一度止まって「間」を置く。私はよく「逆に真あり!」と言いますが、間を置いて逆から観ることで、間違いに気づくことがたくさんあります。 もう一つ、何ごとも深く知るには同時に広く掘る(学ぶ)ことですね。井戸を掘るのと同じ要領です。多くの本と人から学んで視野を広げる。小さな積み重ね、手を抜かない、急がば回れ等々。何ごとも面倒臭いと思った時こそ逆にチャンスなのです。そのことを、特に若い人には早く知ってほしいと思います。

30歳で音楽の世界から建設業へ

藤田和夫

1951年、北海道の十勝にある浄土真宗の寺の孫として、帯広でこの世に生を受けました。子供の頃はやんちゃなガキ大将。14歳で音楽に魅了され、札幌で高校を卒業後30歳近くまでプロのドラマーとして生計を立てていました。結婚は27歳。初めて就職したのは長男を授かった30歳の時です。商業施設を作る設計監理会社で2年働き、3年目で建設会社から経営者として声がかかり転籍します。学生時代はろくに勉強しませんでしたが、20代後半からは普通の人の何倍も勉強したと思います。特に経営者になってからはひたすら本に学び実践しました。中でも強く影響を受けたのが、もうおなくなりになりましたが建設コンサルタントの飯塚孝文氏が著された指南書でした。時代はバブル経済真っただ中、私は勢いあまって36歳で独立してしまいます。そうやって、スーパーマーケットやコンビニエンスストア、各種専門店の改装・新装工事に明け暮れました。時代に後押しされた、と言っていいでしょう。
そうこうしている間に日本のバブル経済が弾け、その余波を受けて40代前半に1億円以上の負債を背負いました。しかし、40代半ば過ぎにまさに青天のへきれき、それまでの手腕を買われて、大手観光会社から地ビール会社の立ち上げと大型バス30台を擁する観光バス会社の社長を託されます。二足のワラジどころか、三足も四足も履いて駆けずり回っていました。同時期には、山一証券や北海道拓殖銀行の金融破綻が相次ぎ、足元では年間の自殺者が3万人にのぼる時代が始まっていました。今考えると生きるのに必死でしたが、世の中が崩れていく中で、個人的にはわずかながら希望の残っている時代でした。振り返ると戦争はなかったし、幸せな世代だったのかもしれません。散々回り道をして、負債に目途がたった53歳で主戦場を建設業に戻しましたが、その頃からこの「資本主義社会」に対して何かが違うと違和感を感じ始めました。と同時に、福祉の世界に関わり始めます。うまく説明できませんが、何かの啓示だったのかもしれません。
その頃です、私のところにニセコの話が舞い込みます。いわゆるニセコバブルの入り口です。持ち込んだのは、後に私の会社を継承することになる京谷孝弘という人物です。そうやって「建設は2年限り」と腹を決めて乗り込み、58歳で創業22年の建築会社を後進に譲りニセコの山を下りました。

その後間もなく東京の知人を介して、埼玉にある孝楽会という名の社会福祉法人が事業の後継者を探していて、藤田さんを紹介したいがどうだろうと打診がありました。これも不思議としか言いようがないのですが、最初にその法人の名を聞いた時、また「孝」か? と思った事を思い出します。そして、理事長が小島孝一氏という名前でしたから、驚きと同時に天命を感じました。もし違う名前だったら引き受けていなかったと思います。さて、引き受けたものの、それまでの孝楽会の経営はかなり厳しいものだったので、経営者としてこれをどう立て直すかを「人生最後のチャレンジ」と覚悟して、単身で赴任しました。その直前に、あの忌まわしい東日本大震災が起きました。

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引き取った犬も事業所の一員(いのち)

「孝」という字は「子が老いた親を背負う」という親孝行の意味ですが、私にはもう一つ「老いた爺が孫を抱いて守る」というイメージがあります。また、北米先住民族の「子供とお年寄りを離してはいけない、それは過去と未来を切り離すことと一緒だ」ということわざも、以前から私の琴線に触れていました。このような経緯から事業所内に保育所を併設するに至りました。
また着任直後、真っ先に障がい者雇用に着手しました。当時、多くの会社で障がい者法定雇用率は2%以下でした。当時の孝楽会はゼロ。それが今当社は10%を超えています。障がい者の雇用は社会福祉法人としての当然の責務だと思いますし、これからも続けて行かなければならない取り組みの一つです。さらに8年前、保健所送り寸前だったある高齢者の飼っていた犬を施設に迎え、今では利用者さんや園児、スタッフみんなのかけがえのない存在になっています。名をノンノンと言いますが、そのノンノンと触れあい、「かわいい」と言って喜ぶ利用者さんや子供たちの笑顔を見るだけで、私も幸せな気持ちになります。
私達法人が掲げる「命優分福」という経営理念は、私の心の中から生まれました。全ての命に優しいという意味と、ここで働くスタッフや育った子ども達に、福を分け合う人に成長してほしいとの願いが込められています。今の世の中は経済を優先するあまり、情(慈悲心)が失われつつあるように感じます。「人は3%の変化に気づかない」と言った人がいますが、仮にそれが10年で3%の変化だとすると、私の生きたこの約70年の間で人の情感が20%以上薄まったということになります。
私には、社会がますます分断され切り離されているように感じます。本来命はつながっていて一つであるという事を、お互いが感じあえる関係を孝楽会では大切にしたいのです。その「命優分福」という理念を形にした小さな雛形を私がここに残し、それが未来に開花すればいいと思います。福祉は時間がかかります。次の世代のスタッフ達が、それをどう育てて行ってくれるかを楽しみにしています。

人間は自らの人生を最後に悟ります。「暁」という字があります。夜明けという意味ですが、さとるとも読みます。そして「さとる」は了であり、了はまた「おわり」でもある。これこそ、老いた先達が、胸に抱き育んだ子孫に未来を託す「孝」という一字に通じています。いよいよ孝楽会も、後進にバトンを渡すタイミングが近づいて来ています。先立って、後進に託した建築会社の経営理念は「熱意・誠意・創意」でした。欲求の階層説を唱えた著名な心理学者、アブラハム・マズローも言っています。「今の安全は未来の危険、今の危険は未来の安全」と。その通りだと思います。若い人は果敢にチャレンジして、自分の人生を彩ると共に、福祉の未来を切り開いていってほしいと願っています。

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