jpx
先物・オプション投資の魅力

先物・オプション投資の魅力

現物とは異なる収益機会として注目が高まる先物・オプション取引。
個人投資家の参加も拡大する先物・オプション取引の魅力や投資戦略を紹介する。

  • 先物・オプション物語
    第1回

    先物・オプション黎明期(1)

    ゆうじ。
    元証券ディーラー
     

    日本における先物・オプション取引の30年の歴史を、マーケットの第一線で活躍した元証券トレーダーが振り返る連載コラム。

    日経225先物上場 ~日本経済は絶好調

    ゆうじ。氏 元証券ディーラー
    ゆうじ。氏
    元証券ディーラー

    1988年9月3日土曜日。

    日経225先物、TOPIX先物が上場された。

    この頃はまだ、土曜日にも“半ドン”で証券取引はされていた。

    筆者の勝手な想像だが、半ドン取引の土曜日を取引の最初の日に選んだのは、もし先物取引に不具合が起きたときのために短い取引時間の日を選んだのではないだろうか。何か起こっても、その後1日半をかけて不具合の改善に当てるためだったのではないだろうか。

    筆者は当時大学3年生であり、そんなことが証券界で起きているなんてことは全くもって知りもしなかった。1990年に証券会社に入り、先物オプション部に配属されて、先物の歴史を学んでから初めて知ることとなる。

    後に先輩に聞いた話ではあるが、上場した当初の日経225先物は大阪証券取引所の場立ちのブースの片隅で、取引がなされていたとのことだった。

    日経平均の現物指数が1分ごとに更新されるのだが、その1分の間に現物の価格がインデックス買いで100円ぐらい上昇しているのを見るや、先物に場立ちの人たちが殺到してみんなが我先にと買いを入れていたらしい。その頃に、もしリアルタイムで日経平均株価の算出ができる手段があれば、相当な収益を上げることができたことだろう。

    リアルタイムの日経平均価格を知るなんて今では簡単なことになった。当時も、先物の上場から2年たたずして、情報端末で計算をさせることができるようになっていた。日経平均のリアルタイム価格を知ることでもうけることができていた時代は、それほど長くはなかったことだろう。

    日経225先物が上場した日の日経平均株価は27,488円であった。その後も日経平均は上昇を続け、89年12月29日には38,915円まで到達する。

    筆者は89年の夏になる前には証券会社に内定をいくつかもらい、その中の一つの会社に就職を決めていた。折しも時代はバブル経済の絶頂期。バブルという言葉は多分まだなかった。世の中の調子がいいことは、就職活動中に聞く証券会社の人の話からも感じ取れていた。

    内定後は時折、就職予定の証券会社の人たちに会う機会があり、諸先輩方は学生たちに羽振りが良いところを見せつけるかのように、高い店に連れて行ってくれてごちそうしてくれたりした。

    世は好景気に沸いているらしかったが、居酒屋やレストランでのアルバイトで日々の生活費を稼いでいた学生のところには、そんなバブルの風は吹きこんでは来なかった。

    日経平均というのは上がるしかないものらしい。

    日経平均は4万円どころか5万円、いや8万円はいく、という予想が証券会社周りではあふれかえっているようだった。

    90年に入ると途端に相場は急落を始めるが、まだ会社に入っていなかった筆者はその下がり具合がどの程度のものであるかの温度を肌で感じることはできなかった。

    それまでに経済の調子がいいような話しか聞いていなかったので、その前提がそんなに簡単に覆るとは思ってもいなかった。

    バブル本格破裂前夜 ~期待という名のヨミ違い

    国内大手生保が保有株式を大量売却へ

    筆者は1990年4月2日、月曜日にI証券に入社した。

    入社式当日、日経平均は急落する。日本経済新聞の1面トップに「国内大手生保が保有株式を大量売却へ」という記事が載ったことが引き金となった形であった。

    相場に冷水を浴びせる形で、日経平均は前日3月30日の終値29,980円から28,002円まで、1日にして1,978円安した。

    会社のエライ人が入社式のあいさつで、「君たちは運がいい。株というのは安い時に買って、高い時に売ることで利益が上がる。今、株は下がってきている。株は下がったら上がるものだ。ここから株は上がっていくしかない。君たちの未来は明るい」と言っていた。

    その人の言う通り、日経平均はその入社式の28002円から、翌5月末には33,000円オーバーまでの切り返しを見せた。

    その33,000円台の日経平均が、その後28年ほどが経過しても抜くことのできない“ド高値”になるとは、市場関係者の誰にも想像できることではなかっただろう。

    「株というのはやっぱり上がるものなんだ」。そう思い込んでしまった入社したばかりの新人証券マンたちは、会社の先輩方に勧められるがままに、自社株や株式投資型の投資信託など、当時のまだまだ高値の金融商品をまるで高利回りかつ確定利付商品であるかのように買い求めた。それが金持ちになるための近道に思えた。

    89年末に日経平均は高値をつけていた。それまでに先輩たちは、積立投信などの金融商品を給与天引きで買い続けて、株価の高騰ですごい利回りの恩恵に与かっているらしかった。

    そうした先輩たちが株式投資型の投信の積み立てを勧めてくるのは、本当に後輩のことを思ってのことだったのだろう。

    今の超低金利の日本に生きている人たちであれば、預金金利5%以上とかいったら誰も彼もが銀行預金に走りそうだけど、そんな金利をモノともしないぐらいの利回りが株関連の商品では出ていた。どの商品をとってみても、89年末までの利回り実績は輝かしいものだった。後になってみれば、その年の終値は誰もが知っているバブルの頂点ではあるが、それが頂点だなんて当時は誰も知る由もなかった。「日経平均は目先下がって3万円前後をやっているが、また高値を取り直して4万円、5万円となっていくさ」。そんな楽観的な雰囲気は証券会社に勤める者たちのみならず、社会全体にあっただろう。

    大いなる野望を抱いて、月々の給与から金融商品への多額の積み立てをしたものほど、手ひどい仕打ちをマーケットから受けることになっていくのだが、90年春の時点でそんな未来のリスクに思いをはせるものは、二百数十人にも上る同期社員の中には一人もいないようだった。

    筆者は90年6月に先物オプション部に配属された。

    そこから、先物オプションとの本格的な付き合いが始まる。

    先物オプション部に着任した初日に、部長から「先物オプションはまだできたばかりの若い商品でこれから大きく育っていくところだ。これを君たちが勉強して、会社の人たちやお客さんに教えていく役割を担っていってほしい」と言われた。

    その時点で、日経225先物やTOPIX先物は、上場してから1年9カ月ほど経過したところであった。部長の言葉通り、1年後には社内の先物オプション勉強会の講師などを務めるようになっていく。

    先物オプション部に入ってまずは、「日経平均の値動きを見とけ」ということになるのだが、「情報端末に表示される三万何千円の日経平均の数字がちょこちょこ移り変わるのを見ているだけでいいなんて、どういうことだろう?」といぶかしんだものだ。

    「この日経平均の数字が動くのばっかり見ててなんかの役に立つのかな? これが仕事? それだけでいいの?」そんなふうに初めの頃は思ったものだ。

    1990年の裁定取引事情 ~国内証券は出足が遅れ

    日経平均を初めて見始めた頃、先輩が横についていろいろと教えてくれた。

    日経平均の現物と先物のティックチャートが表示されている画面で、日経平均の現物と先物の価格差が少し開き気味になってくると先輩が「そろそろバイプロが入るぞ」とつぶやく。(現物株のインデックス買いのことを当時はバイプロと呼んでいた)

    すると、間もなくして、日経平均の現物株のチャートがギューッと上昇して、現物株と先物の鞘(サヤ)が縮まるような現象が起きた。それを見るにつけ、魔法のようだなと思ったものだ。

    「どうして、それがくることがわかるんですか?」と質問すると、先輩は、「このぐらいの価格差が日経平均現物と先物の間で起きると裁定取引の設定チャンスなので、日経平均採用225銘柄を1000株ずつ全部買って、先物を10枚売って裁定取引の買いポジションを作り上げていくんだ」と、部署に配属されたばかりの新人にはほとんど訳のわからない説明をしてくれた。

    毎日、先物の勉強をしていくことで少しずつ先物の取引について理解していったが、当時どうしてもわからないことがあった。

    日経225先物と現物との鞘が大きすぎるのである。

    日経平均現物が32,000円ぐらいのときに、先物の理論価格は32,200円ぐらいのはずなのに、実際の先物は32,800円ぐらいの価格で取引が行われているのだ。

    「これはどうしてか?」と先輩に聞くと、先輩は、「株式市場の先高観じゃないの?」と冗談とも本気とも思えるような答えをしてくれた。国内のマーケット参加者の大半は本気でそう思っていたかもしれない。

    当時の日経平均の除数は10前後であり、日経平均採用の現物株225銘柄を1000株ずつインデックス買いして、先物を10枚売ると裁定取引が1バスケット分組めていた。

    先物が理論価格よりも600円上の価格を取引しているということは、先物10枚×600円分の利益が一つの裁定ポジションの決済で上がる計算になる。つまり、裁定取引の買いポジションを1バスケット組むと、600万円の利益を上げることができていた。当時3カ月毎のSQ時には1銘柄あたり数十万株ぐらいの裁定解消玉が出てきていた。例えば、1銘柄あたり50万株の裁定取引のポジションがあれば、500ユニットの裁定取引が組まれていたことになる。1つのバスケットで600万円の利益を挙げることができるのなら、それが500ユニットあれば利益は30億円に上る。

    1本のインデックス売買で600万円の利益を得ることができるのなら、もっともっとえげつないぐらい裁定取引をやればよさそうなものだが、当時、裁定取引をやっていた業者も、あまりにやり過ぎると裁定が利いてしまって価格差がなくなってしまい、“おいしい”状態ではなくなっていくから、それなりに慎重に事を進めていったのだろう。

    こんなおいしい取引がいくらでもやれるチャンスがあったのに、日本の証券会社はこの裁定取引を自由に組むことができない状態であった。

    90年当時はまだ取引所の立会場で現物株式が150銘柄ほど取引がなされていた。日経平均採用銘柄にはこの立会場に上場されていた150銘柄の中からも多く採用されていた。立会場銘柄をインデックスで買いたかったら、場立ちの1人が、各銘柄のポストの前に立ち、「この銘柄を1000株買い、この銘柄を1000株買い」と、1つずつ執行していくしかなく、インデックス買いをするだけでとても時間がかかっていた。

    立会場で取引されていた銘柄以外は、証券会社に設置された取引所の株式売買システムで取引ができるのだが、これもまだ当時はインデックス売買を1つずつ手で打ち込んでいくしかない状態で、インデックス売買を225銘柄に入れていくためには、画面にコードを打ち込んで1つずつの銘柄に順次買い注文をいれていく必要があった。

    他にもインデックス売買をするのに大きな壁となったのが、「自己対自己のクロス売買禁止」の規制であった。自社の自己ディーリングの取引同士が同じ値段でぶつかると、相場操縦などを疑われるため、自己のクロス売買はたとえ1単位であろうと当時の現物株のディーリングの現場では禁止事項であった。

    例えば、新日鉄の現値の売り板に自社のディーラーが100万株の利食い売り注文を持っていたとする。そこに、インデックス売買で1000株ずつを225銘柄に入れようとすると、その売買がぶつかることとなってしまう。それは許されないことで、インデックス売買を1000株入れるためには、100万株の売り注文を消してもらわなければならなくなる。

    たった1000株の注文を出すために、ディーラーがあらかじめ用いていた100万株の売り注文を取り消せ、なんて、その100万株の売り注文を持っているディーラーが納得するわけがなかった。そのディーラーは新日鉄の値段が1円動けば100万円の勝ち負けが起きるほどの勝負をしているのである。片や、インデックスで出したい玉はたったの1000株である。ディーラーたちがそんな訳のわからない裁定取引のために、自分たちの持っている注文で売買がぶつかりそうなものを全部取り消せなんて言われても、ハイ、そうですかと納得できるものではなかった。そんなこんなで、現物株のディーラーが数多く在籍していた、当時の日系の証券会社ではなかなか日経平均の裁定取引をやることができなかった。

    一方、技術の進んだ外資系、特に米系の2社が裁定取引については突出した技術を当時持っており、彼らは瞬時にインデックス売買を日経平均採用225銘柄に入れることができていた。日系の証券会社が持たない技術を持った外資系の証券会社たちは、裁定取引のポジションを大きく積み上げていき、年間数百億円という巨額の利益を日本市場から得ていくこととなる。

    89年は日本の証券会社はバブルの絶頂期で、年間で数百億円の利益といってもさほど大きいものとはみなされなかった。しかし、90年になると日本の株式市場は急落を始め、日系の証券会社のほとんどは軒並み赤字決算となる中、裁定取引に秀でていた米系証券2社の突出した利益の数字はたちまち話題となった。日本の証券会社も裁定取引をしなければならないと言い出し、大手、準大手の証券会社が環境を整え、91年頃からは裁定取引をやる会社が増えていった。

    だが、裁定取引の参加者が増えていくとともに、日経平均現物と先物の間で開いていた鞘はほとんどなくなり、裁定取引をやっても全くもうからないという状態に、程なく収れんしていった。

    日経225先物が上場されてから2年間ほどの間に裁定取引をいち早く行っていた先行者だけが利益を享受し、そこに周回遅れで次々と飛び込んでいった日系の証券会社は利益をほとんどあげることができないまま、裁定取引から撤退していくこととなるのだった。

    ゆうじ。
    元証券ディーラー
    蟹座のO型。100kmマラソン11回完走のスポーツ派。
    1990年に大学の数学科を卒業して証券界に入る。延べ7社の証券会社で24年間、先物およびオプションのディーラーを務め、累計30億円の利益を上げた。超短期のデイトレード中心で、1日の最大損失は500万円、最大利益は6110万円、最大売買件数は3300件。月間最大利益が1億円なのに月間最大損失は800万円と、リスクマネジメントに優れているのが大きな特徴。ファンドの立ち上げに携わったこともある。業界人が交流する場「マーケットフォーラム」を数人で創設、運営してきた。著書に『日経平均 値動きのルール(30億円稼いだ伝説の元証券ディーラーが説く!)』(standards)がある。