挑戦者の原動力 スカイライン特別企画

父の背中を追って伝統の世界へ青森の夏を彩る「ねぶた」受け継ぐ ねぶた師 北村 麻子さん

青森の夏を勇壮に美しく彩るねぶた祭り。北村麻子さんは男社会だった「ねぶた師」の世界に飛び込み、初の女性ねぶた師となった。6代目ねぶた名人の父の背中を追いながら、自らの力で独自の作風を作り上げている。ねぶた師としての父との葛藤、夢を諦めない強さ、ねぶたへの思いなどを北村さんに聞いた。

出発点は父のねぶた技術や思いを途切れさせたくない

 父がねぶた師だったので、子どもの頃からねぶたを制作する「ねぶた小屋」にはよく顔を出していました。でも女の子は、色付けや組み立て作業は手伝わせてもらえないんです。高いはしごに乗ったり危険が多いこともあり、女性は紙貼り作業だけをするものだと言われて育ちました。だからテーマ設定から下絵書き、制作までを一手に取り仕切るねぶた師になることなど、全く考えていませんでした。

 ねぶた師になろうと決意したのは25歳のとき。出発点は父の作品です。世の中の景気が非常に悪い時期で、父が制作を任されるねぶたが3台から1台に減ってしまっていました。年に1台では生活も苦しい。そんな状況の中、父は「聖人 聖徳太子」という作品を作り上げたのです。この作品は、構図や光の使い方がそれまでの父の作品とは全く違い、私にとっても大きな驚きでした。父のねぶたが、華やかな光を放ちながら、青森市の国道を遠くから近づいてくる光景を今でも鮮明に覚えています。

 その様子を見ながら、「ねぶたは私たち家族にとって何なのか」「この先、ねぶたが1台もなくなってしまったら」と考えました。すると自然に、父が守ってきたねぶたの技術や思いを途切れさせたくない、自分の手でねぶたを作りたいという気持ちを止められなくなったのです。気づいたら、ねぶた小屋に足を運んでいました。

全く相手にされない毎日悔しい思いをしたから頑張れた

 ねぶたを作りたくて、作り方を教えてもらいたくて、勤めていた仕事が休みの時には、必ずねぶた小屋に通うようになりました。ところが全く相手にされないんです。ほかの弟子にはいろいろ指示が飛んだりするのに、私はいつまでたっても指示すらもらえない。すごく悔しくて、帰ってからいつも泣いていました。

 「ちゃんと教えてほしい」と何度も父に言いましたが全く聞いてくれません。他の弟子への指示を盗み聞きしたり、その弟子がやっている手を盗んだり、少しずつ覚えていくしかありませんでした。たまに父から指示が来た時きちんとこなしたら「あ、こいつはできるな」と思ってもらえ、次のステップに進めるからです。そんな日々が3年くらい続きました。

 ねぶた師になった次の年、父が「ここの色どうする?」と、自分が制作しているねぶたについて私に意見を求めたんです。初めて相談されたときは感激しました。悔しくて泣いた日々も、それほどの情熱を持ったことが人生で初めてだったので、そんな自分になれたこと自体がすごくうれしかった。悔しい思いをしたからこそ、逆に頑張れたのかもしれません。

最高賞を取ったとしても自分の作品に満足することはないでしょうね

「ねぶたに、各賞が設けられているのはとてもいいことです。公表されるのは1位から5位までですが、実は22位まで順位が全部つきます。だからねぶた師は切磋琢磨(せっさたくま)する。私はまだまだ新人で未熟ですが、同年代のねぶた師はもちろん先輩たちにも負けたくない。毎年、一番上の最優秀制作者賞を目指しています。でも、作品作りにはゴールはないから、最高賞を取ったとしても自分の作品に満足することはないでしょうね」(北村さん)

北村さんを支えるもの 修行時代に書き留めた“ねぶたノート”

「ねぶた制作のための文献は全く残っていませんし、ねぶた師の流派によっても作り方は全然違います。私はとにかく早く自分のものにしたかったので、全部書き留めたんです。将来、初心を忘れてしまったり基本から離れてしまったりした時にも、役に立つと思っています。もし娘がねぶた師になりたいと言っても、このノートは見せません。簡単に手に入るものは身に付かない。苦労して手に入れるからこそ大事にするのだと思います」(北村さん)

その時しかできないものを素直に作れば「自分の色」になる

 ねぶたには、最優秀制作者賞をはじめ、知事賞、市長賞などいくつかの賞が毎年設けられています。私は、父に師事して5年目に初めて手がけた作品で運よく優秀制作者賞をいただきましたが、「父親が作ったのではないか?」と2年くらい陰口を言われました。すごく悔しかったですが、いくら否定したところで言う人は言う。やはり自分で見せていくしかないですね。

 私のねぶたは「色使いがきれい」などとよく言われるのですが、実はそこを意識したことはないんですよ。“らしさ”が自然に自分から出てくるものであれば、逆らう必要はない。私自身は自分の色をあえて出そうとは思っていません。ねぶた師それぞれ、それまでの経験、生活している環境や私生活そのすべてによって作風は異なるし、どんどん変わっていくと思うのです。

 色や個性を無理に出そうとすると、どうしても作品自体がイヤらしいものになる気がします。その時にしかできない自分の作品を素直に作っていって、それが他の人から見た時に「北村麻子の色だ」と言われることが「自分の色」なのかなと思っています。

自己満足ではだめ見る人、皆に楽しんでもらいたい

 毎年一番悩むのはテーマです。私には、皆さんの想定や期待を「いい意味で裏切りたい」という思いがあります。8月1日のねぶた前夜祭にねぶた小屋が全部開けられ、初めて他のねぶた師さんの作品が分かる。「今年はこういう風にきたか」と驚いたり、すごくワクワクする瞬間です。

 地元の皆さんも同じような気持ちで楽しみにしてくれています。例えば、小さいときは親に肩車され、学校に上がると友だちと一緒に、結婚したら夫婦で、子どもが生まれたら子どもを連れ――。ねぶたは、地元の人にとって人生とともにある身近なものです。子どもがねぶたを好きになるのは、楽しそうな親の姿を見ているから。そんな風に続く見る人たちの思いを、作り手としてつないでいきたい。それが、伝統を受け継いでいくことなのだと感じています。

 ねぶたは芸術作品だと言う人もいますが、私は正直、芸術でも職人技でもどちらでもいいと思っています。周りの人に楽しんでもらえればそれでいいんです。ただし難しいものにはしたくないですね。一度、色使いに凝り過ぎて、子どもには分かりづらいものになってしまったことがありました。それではダメなんです。自己満足でなく、見る人たち皆のものであってほしい。そんな思いも込め、これからもねぶたを作り続けていきます。

プロフィル
ねぶた師

きたむら・あさこ/1982年青森県生まれ、ねぶた師史上初の女性ねぶた師。2007年、父であり6代目「ねぶた名人」の北村隆氏が制作した大型ねぶた「聖人 聖徳太子」に感銘を受けねぶた師を志す。12年、デビュー作「琢鹿(たくろく)の戦い」が優秀制作者賞を受賞し注目される。16年の「陰陽師、妖怪退治」は、武士の世界を描いた作品が多い中、妖怪、化け猫などを登場させ遊び心のあるねぶたとして評価され、優秀制作者賞、商工会議所会頭賞を受賞。

プロフィル ねぶた師

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これまでもこれからも挑戦する人とともに

常に挑戦する魂を失うことなく、時代の最先端を走り続ける日産自動車のプレミアムセダン。クルマ本来の最高のパフォーマンス、最高の走行性能にこだわり続けてきたからこそ、あえてラグジュアリーではなくプレミアムと呼ぶにふさわしいクルマたち。輝かしい歴史とDNAを受け継ぎ、新たな未来を拓(ひら)くその魅力に迫る。

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進化の結晶が、いまここに。

仕事でもプライベートでも、普段からよくクルマを運転するという北村さん。
「子供もいますし、ねぶたの道具なども乗せないといけないので、クルマは利便性やパッケージが一番ですね。それと、仕事柄“かっこいいデザイン”も気になります。父は一時期クルマにすごくはまっていて、私も小さい頃からよく一緒に乗せてもらっていました。クルマのボンネットに腰掛けてカッコつけて撮っている写真も思い出にあります(笑い)」(北村さん)
60年にわたり日本を代表する名モデルを生み出し続けてきたスカイラインは、時代をリードするスポーティーでダイナミックなプロポーションやデザインにも挑戦し続けてきた。最新モデルは、観る者を一瞬で走りへと駆り立てる躍動感、高揚感のあるデザインの伝統を継承。その凜(りん)としたたたずまいは「アスリートセダン」としての存在感を主張する。日本独自の匠(たくみ)の技も取り入れ、ボディーカラーは刀鍛冶に鍛えられた鋼の青光りをイメージした「HAGANEブルー」、灼熱の赤銅色をイメージした「プレミアムブラウン」を用意。インテリアには拭き漆技法に触発された木目パネル、甲冑(かっちゅう)の小札(こざね)をイメージしたアルミパネルなどを採用。

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革新し続ける。

セドリック、グロリアの系譜を繋ぎ、日本のプレミアムセダンの頂点から、世界の頂点へと革新の道を歩み続けるフーガ。パワフル&ハイレスポンスな走行性能と優れた環境性能を両立する、1モーター2クラッチ方式の「インテリジェント デュアル クラッチ コントロール」を採用した独自のハイブリッドシステムなど。その挑戦の全ては、人生を革新し続け、真の豊かさの価値を知るオーナーのために。

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