原誠
1952年生まれ、東京都出身。東京大学医学部卒業後、医学博士号取得。東大病院耳鼻科医局長、東京大学保健センター講師を経て米国ハーバード大学に留学。耳に関する病理学の研究を行う。帰国後、JR東京総合病院耳鼻咽喉科部長を19年務めた後、現在は非常勤講師として勤務中。定年後は地元葛西にて開業し、名戸ヶ谷病院耳鼻科部長も務める。現在はメディア出演などしながらはら耳鼻咽喉科に専業。交通医学会評議員、日本耳鼻咽喉科東京都地方部会名誉代議員などの多数の学会や医学会に所属。
http://hara-jibika.com/

INTERVIEW

私には天賦の才があったわけではありませんが、とにかく真面目に勉強しました。国内外の研究機関や病院で毎日電子顕微鏡をのぞき、膨大な数の標本とにらめっこをして、患者様とも真剣に向き合ってきました。だから症例を聞くだけで耳の中の様子が鮮明に思い浮かぶんです。自分で言うのもなんですが、長年の経験で見立ての正確さや培った技術で診察中ファイバーを使いガンの疑いがないかどうか確認したり的確な対処が身にしみ付いているから、65歳になった今でも第一線でこの仕事を続けていられるのだと思います。健康で手足がきちんと動く限り働けて、地域や社会に貢献できるのがこの仕事のいいところですね。

患者様を背負って馬券売り場に並んだ

原誠

子供の頃から聞き分けがよく、真面目でした。学校の先生になりたかったですね。家庭は特段裕福ではなかったので、医師になろうとは思いませんでした。東京大学理学部数学科に進学するとコツコツ勉強してそれなりの成績をキープしていましたが、一日中ぐうたら過ごしてまともに授業に出てこないような生徒が満点を取ったりするんですよね。ここではいくら頑張っても1位にはなれないのだと分かってきました。

親戚の入院先の病院を訪れた際に、医師の仕事がいいかもしれないと思い医学部に入り直したんです。数学科には天才がごろごろいましたが、医学部は天才というより勤勉な秀才タイプが多かったですね。そのほうが自分に合っていると感じました。コツコツと努力を積み重ねていけば経験値が上がって見立ても良くなってきて、診察室に患者様が入ってきた時の雰囲気と聞いた話でおおよその診断が予測できるようになっていきました。

今まで様々な患者様との出会いがありましたが、印象に残っているのが勤務医時代に出会った終末期の男性患者様です。いつ容体が急変してもおかしくない状況でしたが、「死ぬ前にどうしても競馬をやりたい」と仰るのです。病院側は「途中で亡くなって騒ぎになったらどうするんだ」と悪評を気にして難色を示しましたが、私は患者様の一生で最後のお願いをどうしてもかなえてあげたかったので、患者様を背負って最寄りの馬券売り場に並びました。その時に買った馬券がなんと当たったんです。患者様は私にとても感謝してくださって、翌日亡くなりました。医師として、病気を治すだけではなく人間らしいことをしたと思えた出来事でしたし、連れて行ってあげてよかったと今でも思います。

  • 原誠
  • 原誠

地域のためにできることをする

開業するなら、生まれ育った江戸川区にしようとずっと決めていました。愛着のある地元に貢献して恩返しがしたかったのです。適した物件がなかなか見つからず、空いていた小さな民家を借りて耳鼻科を開院しました。昭和の診療所のようなたたずまいで、待合室は数人入ればもういっぱいでした。

2016年、近隣で土地が売りに出ていたのですぐに押さえ、ついのすみ家のつもりで医院を新しくしました。待合室には30人以上座れますし、検査室やインフルエンザの患者様の隔離室も作り、機器も充実させました。私たちは21時半まで開けているので夜間も多くの患者様が来院します。夕飯時に魚の骨が喉に刺さって駆け込んできた患者様は「こんな時間まで開いていて助かった」と喜んでくださいました。勤務医の頃から、週末や夜間に診てくれる病院がなくて途方に暮れる患者様の姿を何度も見てきたので、できる限り対応したいんです。毎日夜まで開けていましたが、さすがに年を取ると大変ですね。それでも週に3日は遅くまで開けています。細く長く地域貢献を続けていきたいので、無理はしません。

私一人では大変なことも多いですが、ありがたいことにうちには心強いスタッフがそろっています。私の息子も自ら耳鼻科医になってくれましたし、付き合いの長い後輩も助けてくれます。日中の診療を彼らに完全に任せることができれば私は夜間の診療に専念できますし、まだまだ続けることができると思っています。 患者様を治して悩みを取り払い、幸せにしてあげること。これが私の生きがいです。70歳を過ぎても現役でいたいですね。そのためにもお酒やタバコとは無縁で、健康でいようと心がけているところです。

ページの先頭へ