1274年、文永の役。蒙古の大軍が押し寄せ、博多湾から九州に上陸した。蒙古軍は博多市街を炎上させるほど攻め上げたが、なぜか急に軍船に撤退。その夜は暴風雨となり、蒙古軍は大きな被害をこうむって逃げ帰る。「神風が吹いた」と博多の人は喜んだ――。
元寇にまつわるこんな逸話は、はたして本当なのだろうか。見逃している事実があるのではないか。そんな観点から、歴史的な通説を「数字」をもとに分析、新しい見解を示すのが本書『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』だ。タイトルにあるように元寇、秀吉の中国大返し(本能寺の変で、中国地方に陣を取っていた秀吉がわずかな日数で京都に引き返したこと)、戦艦大和に関する3つの謎解きに挑む。著者の播田安弘氏は、元三井造船で大型船から特殊船までの基本計画を担当したエンジニア。
元寇の通説では、軍船900隻、4万もの兵力で九州を襲来、全軍が一斉に上陸したとされている。しかし著者は、まずここで異議を唱える。軍船建造に必要な大工や人夫の数、さらに当時の蒙古軍船を復元してみると、実際の規模は300隻、兵士26,000名ほどだと考えられるという。
さらに、軍船は湾に着くと、上陸艇が往復して兵士を運ぶ。『蒙古襲来絵詞』に描かれているものから著者が推定すると、上陸艇には兵士が12人しか乗れず、船団と浜までの距離は少なくとも1キロメートルある。3万近い軍では上陸に10時間、さらに軍馬を上陸させるにも10時間かかる計算になる。上陸するたびに日本側の武士団から襲撃を受けることは免れず、おそらく蒙古軍は1日で全軍を上陸させることができなかったと考えられる。
上陸に時間がかかりすぎることが最大のネックとなり、蒙古軍は撤退した。船に引き上げた蒙古軍は、本国へ帰還するまさにその夜、強い北西風の発生によって遭難した、というのが著者の見立てである。地理的・気象条件的に見ても蒙古軍の撤退は戦略の失敗と言えそうだが、奇跡的な神風というイメージはどこから生まれたのか。著者はその点についても考察を進めている。
元寇について記した史料『八幡愚童訓』には、応神天皇が神格化された「八幡様」のご加護があり、蒙古軍を撃退できたという記述がある。この史料は神の功徳を強調するプロモーションの意味合いが強かったが、いつの間にか、神によって日本は守られているという神風説の根拠となったようだ。
ほか2つの謎も、数字や資料に基づいた言及が続いている。例えば日本の命運をかけ、国家予算の3%をもつぎ込んで造られた戦艦大和は、世界一の大きさと飛距離を誇る主砲を4回しか使わずに沈没した。「無用の長物」と皮肉られることも多いが、それは軍のトップが当初の戦法に固執したためだと著者は説明している。
リアルな現状認識こそが必要だと、本書を通して著者は訴えている。科学的に、リアリティーをもって歴史に向き合ってこそ、学べることが大きくなるのだろう。