「アート思考」への注目が高まり、教養として、あるいは思考やセンスを磨く目的で、アートに興味をもつビジネスパーソンが増えているようだ。
しかし、モネやルノワールに感動しても、現代アートは「わからない」という方もいるだろう。バンクシーくらい風刺が強烈なら理解できる。が、例えば、本書『現代アートをたのしむ』にも紹介されるデミアン・ハーストの<母と子、分断されて>(1993)は、まっぷたつに切られた2頭の牛のホルマリン漬けだ。権威ある賞の受賞作らしいが、とっさに気の利いた感想は出てこない。
現代アートが「わからない」という方に、ぜひ本書をお勧めしたい。キュレーター出身の小説家・原田マハ氏と、香港のアートセンターでエグゼクティブディレクターを務める高橋瑞木氏が、多数のアーティストや作品をあげながら、主に対談形式で、現代アートの楽しみ方を指南する。2014年刊『すべてのドアは、入り口である』の大幅加筆修正版だ。
まず、現代アートの定義である。諸説あるが、一説によると、マルセル・デュシャンが既製品の男性用便器に<泉>とタイトルをつけて展覧会に出した、1917年以降を指すそうだ。
<泉>は、写実的な絵画のように、いわゆる「美しさ」を楽しむ作品ではないし、作者のメッセージも読み取りにくい。しかし、時代背景を知れば、新たな気づきがありそうだ。原田氏によれば、当時は抽象絵画が始まった「アート戦国時代」。便器はある種、「飛び道具」だったという。何をもってアートとするのか、「価値判断の仕組みを暴きたかった」のだろうと、高橋氏は指摘する。
二人はまた、現代アートの面白さとして、同時代性を挙げる。現代アートのアーティストが私たちと同じ時代に生きているがゆえの面白さとして、例えば、展覧会で作者に会って質問したり、気に入ったアーティストの次の作品を楽しみに待てることなどを指摘するのだ。そう言われると、コロナ危機を経た世界を現代のアーティストたちがいかに表現するのかは、今から楽しみになってくる。
原田氏は、アートは「友達」だと語っている。その心は、裏切らず、去っていかず、全力で応え、励まし、どんなときでも無条件で受け入れてくれることだという。そうか、友達か、と膝を打つ思いがした。音楽や文学にも言えることだが、本当に苦しい時、誰にも相談できない時、物言わぬ作品に慰められ、励まされた経験をお持ちの方は多いだろう。現代アートも、変わった「友達」と思えば、面白く付き合える気がしてくる。
現代アートは「わからない」と決めてかかる前に、素直に作品と向き合うことが大切だろう。まっぷたつの牛を見て、「このベコ、6歳だな」と言ったおじさんがいたそうだが、それも一つの感じ方だという。そう思えば、肩の力が抜ける。美術館に向かう前に、本書でアートとの距離を縮めてほしい。